分解禁止。それでも『お前がやれ』と言われた日
2026.01.23昭和十四年、二十歳。
祖父・小村清一は、陸軍に召集されました。
配属は機関銃中隊。
ほどなく中国大陸へ渡り、揚子江中流の宜昌を占領する作戦に参加します。
当時の日本軍が、日中戦争を通じて最も奥深くまで進出した都市でした。
そこで、ある出来事が起こります。
敵の面前で河を渡る、敵前渡河作戦。
その最中、大砲の照準眼鏡が水に浸かり、使えなくなりました。
照準眼鏡は、極めて繊細な精密機器です。
調整が難しく、分解は禁止されていました。
しかし、敵は目の前。
大砲が撃てなければ、部隊は動けません。
その場で、大隊長命令が下ります。
「小村、お前ヤレ」
新兵だった祖父に、白羽の矢が立ちました。
渡されたのは、わずかな工具と、
ガーゼやアルコールといった応急的なものだけ。
祖父は、その場で分解と清掃に取りかかります。

失敗すれば、取り返しがつかない。
しかし、やらなければ、もっと深刻な結果になる。
満州で、測量機械を独学で調整してきた経験。
分からないことを前にしても、
「まず手を動かす」しかなかった日々。
その積み重ねが、この瞬間に引き出されました。
結果、照準眼鏡は復旧し、大砲は再び使えるようになります。
祖父はこの経験を、後に
「火事場のバカ力」と表現しています。
けれど実際には、
極限状態で突然力が湧いたというよりも、
逃げ場のない状況で、身につけてきた技術を使い切った
という方が近いのかもしれません。
この一件がきっかけとなり、
祖父は中隊から、師団の兵器勤務隊へ転属になります。
兵器の取り扱いを専門とする部隊です。
さらに、兵器学校の特別教育隊へ。
期間はわずか三ヶ月。
しかし、内容は過酷でした。
工学の基礎理論から始まり、
兵器の検査、修理、操作。
学科と実習の連続です。
戦時中の教育は、生易しいものではありません。
できなければ殴られる。
食事も与えられない。
祖父は後に、
「近頃の“地獄の特訓”なんて、生ぬるい」
と振り返っています。
命がかかっている以上、
技術は「知っている」だけでは意味がない。
その場で使えるかどうかが、すべてでした。
この時に叩き込まれた基礎が、のちに技術者としての土台になります。
やがて戦況は悪化し、部隊は長江から満州へ移動します。
そして終戦直前、祖父はソ連軍の捕虜となります。
ここから先は、シベリアでの抑留生活。
技術が、
「仕事」ではなく
「生き延びるための力」へと変わっていく時間です。
——次回は、
捕虜収容所で始まった、
ゼロからのモノづくりについて綴ります。
タヌキの毛皮でフイゴを作り、
戦車のスクラップから道具を生み出した日々。
祖父が本当の意味で
「モノづくりを体で覚えた」時間です。


