帰ってきた場所で
2026.01.30長い抑留生活を経て、
祖父・小村清一は日本へ復員します。
いつ帰れるのかも分からない時間の中で、
「よく働いた者から優先的に帰国させる」
というロシア側の言葉を信じ、一生懸命に手を動かし続けた結果でした。
それが本当に理由だったのかは、分かりません。
祖父自身も、
「甲斐があったのか、なかったのか分からない」
と語っています。
ただ一つ言えるのは、
生きて帰ってくることができたという事実でした。
戦場と収容所の外へ
日本に戻った祖父を待っていたのは、
戦争が終わったあとの、混乱した社会でした。
食べるものも、仕事も、安定しない。
復員兵という立場が、
すぐに何かを保証してくれる時代ではありません。
シベリアでは、
作れと言われれば作り、
直せと言われれば直す。
役割は、はっきりしていました。
しかし日本では、
自分で仕事を見つけなければならない。
島根へ
やがて祖父は、生まれ故郷である島根へ戻ります。
大工の棟梁だった父のもとで育った故郷です。
ここで祖父は、改めて「手を動かして生きる」という感覚を取り戻していきます。
祖父が選んだのは、
カメラの修理でした。
大きな設備も、資金もいらない。
必要なのは、
分解し、構造を理解し、元に戻す力。
戦場で、収容所で、散々やってきたことです。
壊れたものを前にして、
「どうすれば動くか」を考える。
この姿勢だけは、どこに戻っても変わりませんでした。
戦場でもなく、捕虜収容所でもない。
日常の中で、技術を使うという時間。
それは、
生き延びるために必死だった頃とは違い、
静かで、しかし確かな積み重ねでした。

技術だけが、残った
振り返ってみれば、祖父の人生は、
文字通り、「必死に」生きなければならない環境の連続でした。
戦争。捕虜。
そのたびに、
立場も、状況も、すべて変わります。
それでも最後に手元に残ったのは、
身につけた技術と、考え続ける癖だけでした。
どこへ行っても、
それだけは奪われなかった。
そしてこのあと、
祖父は思いもよらぬ形で、
「製図台」という仕事に出会うことになります。


