そして、シベリアへ
2026.01.27終戦直前。
部隊が長江から満州へ移動した結果、祖父・小村清一はソ連軍の捕虜となりました。
中支に留まっていれば、早く帰国できたはずだ。
祖父は後に、そう振り返っています。
しかし、この「不運」とも言える出来事が、
結果的に、得難い経験をもたらすことになります。
送られた先は、バイカル湖近くのウラン・ウデ。
戦車の修理工場を改造した、大きな建物でした。
多くの捕虜が、材木の伐採や炭坑作業といった重労働に回される中、
祖父を含む数名の技術者が集められます。
収容所で必要なものを、
作る。直す。
それだけのための、特別作業隊でした。
「これ、できるか」
毎日のように、ロシア語が飛んできます。
「エタ・モージノ?」
――これ、できるか。
「レモント・モージノ?」
――修理、できるか。
選択肢はありません。
できるかどうかではなく、
やるかどうかだけが問われる毎日です。
祖父たちは、まず鍛冶屋を作るところから始めました。
タヌキの毛皮を使ってフイゴを作り、
ハンマー、ヤスリ、鋸を自作する。
材料は、
スクラップとなった戦車が山のようにありました。
所長の許可を取り、
戦車を堂々と分解する。
軍隊というのは不思議な集団で、
その中には、冶金を専門とする元教師もいました。
知識と経験を持ち寄り、
ゼロからのモノづくりが始まります。

捕虜から「同士」へ
ある日、祖父は仲間と相談し、収容所長のもとへ交渉に行きます。
「修理でも何でもやる。
だから、決まった作業場所と、人を少し集めさせてほしい」
通訳を介しての交渉でした。
身長二メートル近い大男の所長は、
話を聞き終えると、笑みを浮かべ、こう言ったそうです。
「タワーリシチ・コムラ。オーチン・ハラショー」
――同士・小村。大変結構だ。
差し出された熊のような手と握手し、
祖父は「捕虜」ではなく、
「同士」 として扱われるようになります。
その後、特別作業隊は拡大し、
帰国時には六十人規模になっていました。
技術は、命をつなぐ
シベリアでの生活は、
寒さ、飢え、重労働が日常でした。
十万人もの人が亡くなった環境です。
その中で、
祖父は比較的、恵まれていたと言います。
理由は一つ。
技術を持っていたから。
軍隊でも、捕虜生活でも、
自分の意思が通ることはほとんどありません。
否応なく置かれた環境で、
それでも道を切り開くには、
「役に立つ存在」であるしかなかった。
一生懸命にやれば、必ず報われるとは限らない。
それでも、
やるしかない状況で、やり続けると、道が残ることはある。
祖父が身につけたのは、
楽観でも、根性論でもなく、
その現実でした。


